【何故自分は音楽するのか、音楽を愛する人々、演奏会のお知らせ】
音楽家はプロだから素晴らしいのか、趣味として取り組む場合はどうなのか。
それは音楽に対する姿勢の問題であって、プロ・アマ関係ないと私個人は思っています。
限られた週末の時間に楽器を携えてオケや吹奏楽の合奏にいく、何て素晴らしいことだろうと、心の底から常に思っています。
投下できる時間やエネルギーの量は、プロ・アマ問わず人それぞれ客観的には違うと思います。
その量の如何ではなく、それぞれが自分の環境やそれぞれの姿勢で、その中で、その人なりに、どう音楽と接しているか、楽しんでいるか、音楽を好み、愛しているか、です。
その意味で私は、食い扶持を稼ぐ手段として自分のプロフェッションを見ていません。(実質的にはそういう面はあると思います)
「今、10億手に入ったら仕事をやめますか?」「はい」とはならないという意味合いです。
例えていうなら、私は「音楽教」の伝道師か僧侶か牧師の末席を穢すような「つもり」で、この宗教はベートーヴェンやバッハやマーラーなど、神々が複数いる多神教のようです。
私に何か資質的に演奏家として必要最低限の要素が一部でもあるとすれば、演奏のクオリティが気になってしまうところかも?
事業の経営者が「これが失敗したら、うち潰れるぞ」となったら、夜も寝れなくなるそうですが、私も同じように、本番の演奏のクオリティは(当然のことですが)良くも悪くも、気になります。
例えば、メンバーに選挙の投票をお願いするかのように、「練習してください」などというのは、それこそ一言、挨拶のように言うことがあったとしても、基本的にはやはり、自分自身の問題です。
自分がどれだけ音楽に魂を売り、本番はベートーヴェンやマーラーがそうであったように、作曲家の意志やメッセージや魂、つまり目に見えない「何か」を、誰にどう思われようと全力で表現しようと、自分なりに全身全霊を尽くすことで、音楽家として居るための『代償』を払おうとしているに過ぎません、必死に。
これは必死こいて祈っているだけの話であり、「天に届け」「お客さんの心に届け」ふぎゃーーーーーーーーー!と、なりふり構わず、よく大恥をかいております。
そうでないと音楽の神々に合わす顔が無くって。
真に真剣であるかどうか、音楽に奉仕しているかどうか、全霊を捧げているかどうかを、厳しい目で見られているような気がします。
音楽に不遜な態度を取れば、私は、精神的には、もしくはベートーヴェン(作曲家)の目から見たら、もはやその瞬間に音楽家では無いと思っています。
一応本人の気持ちとしては、本人なりに切実です。
人の命に関わるような仕事ではありませんが、全精力を賭けて作曲家のメッセージを伝える、表現する、お客さんの心を打ち震わす、と微力ですが、真剣に心がけようと思っています。
それは何のためにやっているのか。
勿論、目の前のオーケストラに対して最善を尽くさせていただくということかもしれないし、自分にとってもそうすることが必要なことであろうし、何より当然、人の心の感動のためです。
もっといえば、究極的には天から見られている、神々である作曲家に見られている、という非常に抽象的な祈るような気持ちかもしれません。
僕はよく寝ますし、音楽以外の勉強も好きで、大して勤勉でもなく、僕以上に勉強家・努力家のミュージシャンの仲間は数えきれないほど多くいると思います。
ただ、こんな自分の中にも最低ラインというのがあって、ここまでやらないと音楽の神や、作曲家である神々に失礼だ、ここまでやらないと、とても音楽家では居られない、というラインは一応あります。
音楽家であるかどうかは、現実的には職業の問題とも見えますが、内面の問題としては、精神態度の話にも視えるかな、と感じています。
さて、
今度のラム・スールのブルックナー・ワーグナーの公演ですが、素敵なメンバーで、とても素晴らしいオーケストラです。
素晴らしい音楽を愛する人たちと、こうした世界の状況の中で、オーケストラ演奏が出来る。
きっと自分は有難い環境にあるのだろうと、余裕もさして無いながら、思います。
ひとつひとつの音楽の機会に心より感謝します。
(昨今、有難みも一層増してまいりました)
皆さんありがとう。
(チケットも入場料もありません。当日直接お越しください。)
「オーケストラ・ラム・スール 第3回演奏会」
2021.9.19.(日)
所沢市民文化センター ミューズ・アークホール
入場無料 チケットレス
13:30開演
指揮:平林遼
ブルックナー 序曲ト短調
ワーグナー 序曲「ファウスト」
ブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」
(アンコールもあるよ!多分よく知らない曲ですよ!)
よろしくお願いいたします。
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